2020年11月29日 ちょっとつぶやいてみるけど・・・これでいいのかな?

2025.8.15 ジャンケン ケンセツ ダイトウア

 戦後80年。私は戦後まもなく空襲を免れた金華地区の町家で生まれました。3歳で引っ越した隣町は空襲で焼け野原になったはずなのに、すっかり復興し、今日の街並みがすでに形成されていました(ただ、小学生の頃、同級生のアパートを訪ねた時、外部からは分からなかったけれど、黒焦げの材で構成された空間を目の当たりにし愕然とした記憶があります)。
 父は南方に出征していましたが、ほとんど戦争体験を語ることはありませんでした。近眼でしたが、せっかくの飛行機も、修理を行う人がいないと聞いて、徴兵ではなく志願したようです。9人兄弟の末っ子で、随分可愛がっていた母親は悲嘆にくれたそうです。実際に赴くと、飛べるような飛行機は全くなかったと言います。
 機銃照射が爆弾以上に怖かったこと、目が合ったパイロットが笑っていたこと、今にも墜落しそうな飛行機に乗り込み南の島から帰国できたこと、飛行機嫌い、バナナ嫌いになったこと、を話したことがあります。母の死に目に会うことはできなかったと兄弟筋から聞きました。母の実家で、ほどなくマラリヤにかかりました。キニーネは本当によく効いた、と母が何度も語っていました。戦地にとどまっていたら、病死していたに違いありません。
 母の実家の町家は、強制的に間引かれた(建物疎開)ものの、不思議と暮らしの支障を語ったことは一度もありません。ラジオから流れる玉音放送に、意味は分からないものの、なぜか涙があふれたと言います。
 全てがこんな内容の両親の話は、なんだか霞みの向こうにあるようです。戦地に赴いた人は思い出したくないのかもしれません。銃後の人々も空襲にあったとはいえ、沖縄や広島、長崎の悲惨さに比べたら、暮らしそのものに戦時下の実感が少ない地域も少なくなかったのかもしれません。
 30年代初頭までは、忌まわしい記憶には、あえて触れようとせず、一歩を踏み出そうとしていたのでしょう。暮らしに追われ、そんな余裕もなかったことも確かです。一方、子どもたちは意味も解さず、ジャンケン建設大東亜と叫んでグーチョキパーを出し合っていました。父と浜名湖の遊覧船に乗った時、出航時に音楽が高らかに鳴り響きました。初めて耳にした軍艦マーチに心が躍りました。本屋には子ども向けの太平洋戦史シリーズ「戦火もゆる太平洋」(昭和37年発行)など戦記物が並び、日本軍の戦果を読みふけりました。今も書棚に残っていますが、誇りを持って戦ったことが記述の中心で、アメリカが資料提供していることに驚きです。子供向けの漫画にも戦記物は少なくありませんでした。
 とは言え、二度と戦争を起こしてはならない、口には出さずとも人々は共通の思いを深くする一方で、戦時下のプロパガンダの名残が子どもの遊びに見られ、勝利することへの高揚感は、本能的というより、ごく自然に身にまとわされるのだと。
 平成初頭、南京大虐殺に対し、実際に現地に駐留した全国の人々が声を上げようとしたとき、今さら言っても仕方ない、と断ったと言う人がいました。結局は、なぜか大きなうねりにはならなかったようです。
 平成の半ば、支給された黒パンは、腹が膨らむから、食べ過ぎが命取りになったとシベリア抑留経験者から聞きました。
 太平洋戦争末期、広島に落とされた原爆部品を運んだ米巡洋艦インディアナポリスを撃沈した伊58潜水艦の乗組員ともお付き合いしましたが、知ったのは遠縁になってから新聞に掲載されてからのことでした。
 確かに、戦時中の語り部の話を聞いた経験はありましたが、私の生活圏内で戦争を語った人は、ほとんど記憶にありません。
 今年、NHKが今年行ったアンケートで、戦争を体験していない世代に、戦争の歴史がどの程度継承されていると思うか聞いたところ、「十分に継承されている」が1%、「ある程度継承されている」が28%、「あまり継承されていない」が64%、▽「まったく継承されていない」が6%との結果が出ました。
 先ごろの参議院選挙も含め、節操というものが感じられない、近年の傍若無人な主義主張が支持拡大されるのを見るたびに、日本も対立分断の時代なのだろうか、これが民主主義なのだろうか、間違っているのではないか・・・疑問がわくのは私だけではないでしょう。
 昨年、世界では、36か国で紛争が起き、戦闘関連死は129,000人に上ると言います。我が国を取り巻く地域でも、ウクライナ侵略戦争を始めた国、海洋進出に余念のない国、核武装を進める国、自国第1主義を抱える同盟国など、地域の平和を損ないかねない状況が、悪化の一途をたどっています。
 戦後80年を機に、平和の尊さを共有・実現するためには、体験者の多くの証言や歴史をねじ曲げることなく、様々な角度から蓄積・検証し、次代へと伝えることが大切です。それには、政治、プロパガンダ、戦地、暮らし、教育など、分野別に体験談を採録・記述し、かつそれぞれの検証結果・コメントを付し、公開することが第1段階。並行して、平和教育の在り方、明治以降の歴史、そして国際情勢、安全保障に至るまでの考え方を整理することができる独立・中立の平和研究機構を設立すること。まさに戦争の当事者であり、原爆被害を受けた我が国にこそ、必要な国策ではないでしょうか。
 子どもたち、孫たちが、そして世界が平和に暮らすことのできる地球を実現するために、国民がこぞって、共通の目標として掲げるべきテーマであるはずです。 

 

2025.8.8 猛暑

 8月5日、国内観測史上最高気温41.8度が、群馬県伊勢崎市で観測されました。ちなみにこの日の岐阜市の気温は、37.6度。気温以上に体感温度は高く感じられます。粟野の夏まつりが開催された3日の最高気温は、2日続きの38.7度。クーラーをつけていても、熱中症になりそうでした。
 昨日、8月7日は立秋。7時ごろから午前中は久方ぶりの雨。そのせいか、涼しさを感じる今朝、虫の初鳴きが聞こえました。
 このところ、ツバメが群れています。巣立った家族と仲間でしょうね。昨日は、頭の上をカモが、騒々しく群れ飛んでいました。4日は、鳥羽川堤をアカトンボが群れていました。この暑さにもかかわらず、生き物たちは夏を乗り切っているように見えます。
 加熱する地球温暖化や海洋汚染などの不敬な行為が、多くの生物の生育環境を脅かしています。台風など自然の猛威に対して、まるで無力な人間のせいで。

▲気温の高い昨今、海を渡って帰っていくのはいつごろでしょう?

2025.7.26 宝の持ち腐れ

 地域にかけがえのない資源があっても、地域が認識していなければ、意味をなしません。近くにあり過ぎて、かえって気付かないものなのかもしれませんが…。
 毎日見上げる眉山は、徳島市の観光地の眉山と同じ名前です。万葉集に歌われたことが、徳島の眉山の名の由来と聞きます。
 岐阜市のこの地の眉山は、江戸時代にこの地を訪れた頼山陽の命名によるもの。「眉を引いたように優美な山容」ことから名付けたもので、その秀麗さは、徳島市の眉山に決して劣るものではありません。
 特筆すべきが標高231mの山頂にある前方後円墳。鎧が出土したことから名付けられたこの古墳は、墳長82m、市内で最も古い年代に築かれました。麓との標高差は約207m。古墳時代中期の築造で、この地域一帯を治めた牟義都(むげつ)の墓とされます。
 では、全国的この高さにあるこの規模の古墳としては、どの程度のランキングに位置するのでしょう。市教育委員会に問い合わせてみました。残念ながら、データは把握していないとのことでした。どうやら、全国の古墳データ一覧から、抽出するよりほかないようです。全国6,799墳から、墳長82m以上の古墳を抽出し、標高差、立地状況を確認しました(大変でした・・・)。その結果、鎧塚古墳より標高差がある場所に造られた古墳は、福井県の石舟山古墳(標高差約210.5m・墳長83m)、二本松山古墳(標高差約227.6m・墳長83m)、若草山の鶯塚古墳(標高差227m・墳長322m)の3つのみ。若草山の古墳は、規模は大きいようですが険しい山頂ではありません。いずれも国指定史跡となっています。
 このように、5本の指に入るのに、鎧塚古墳は、雑木に覆われて未整備のまま荒れ放題の有様です。どうしてこんなことになっているのでしょうか。納得がいきません。まずは、古墳としての価値を整理し、地域と市で情報を共有することから始めなくてはならないようです。
 古墳時代と言えば、粟野も含めたこの地域は、現存する戸籍で最も古いものの一つ「三井田里戸籍」(みいだりこせき)が残されています。
 もっと地域の歴史に関心を持つ必要があるようです。道三、織田信長よりもっと古い時期に、この地は、大きな力を蓄えていたようです。一歩ずつ、古代のロマンの世界へ、みんなでタイムスリップしてみませんか。

2025.7.2 米不足?

 昨夏の8月末、突然、米売り場から米が消えて、間もなく1年が経とうとしています【トップ写真は昨年8月20日撮影】。当時は、「間もなく新米が出回るので心配ありません」・・・その後の迷走はご存じの通り。
 米価が高い、安いはともかくも、売り時を見定めるかの如く、市場から米は消えました。
 水戸黄門の時代のことと思いや、何と買い占め、売り控えが現実に?
 江戸時代で言えぱ、お助け米が出回りだした途端、銘柄米が山積みに。
 消費者運動も盛んではなくなった近年、もとより打ち壊し騒ぎにも発展しない非行動社会とでも言いましょうか、的確な情報もマスコミも報道できないまま、国の施策の妥当性も判断しずらい感があります。
 米の適正価格が生産者に反映されるよう、さらに自給率向上、里地里山と国土の環境保全を国策に求めたいもの。
 折から、トランプ大統領が、「米不足なのにアメリカ米を輸入しない」とご立腹。国民にも米(こめ)関連の政策の全容が届かない状態で、他国に理解させることができるのか、本当に不安。
▲銘柄米は5kg当たり4,000円台後半に【7.3.22】
▲備蓄米放出決定後も値段は変わらず【4月3日】
▲ますます高騰【6月5日】
▲価格高騰ばかりか、米が棚から再び消え始める【6月6日】
▲突然、銘柄米が山積みに【6月15日】
▲市内にも備蓄米入荷予定の張札が【6月16日】
▲進む農地の宅地化
▲近畿地方では、6月27日、統計史上最速の梅雨明け宣言(6月9日梅雨入り)。米にも影響が?
▲地域に伝えられていた雨乞い踊り(岩野田郷土誌より)

2025.6.28 品格のある町

 隣接する住宅が排ガスの影響を受けないよう、店舗の駐車場の多くは、「前向き駐車でお願いします」とのサインボードが掲げています。市内の駐車場では、おおむねトップの写真のように、マナーを守って駐車しています。ところが、よその市に車を走らせると、いつ訪れても9割がた、後ろ向きで駐車してある店舗があります。トップ写真の看板より、大きく、わかりやすいイラストもかかれているのにどうしたことでしょう。読解能力なのでしょうか。そもそも、我が家が同じように隣接することをイメージすれば、実践できる気がするのですが。
 地域では、ポイ捨て・不法投棄がとみに目立つようになりました。上流部から流れついたり、通過交通が放り投げて行ったりと。
 訪日外国人が「ごみ箱が見当たらないにもかかわらず、日本はごみ一つ落ちていない美しい国」と異口同音に唱えるのは、品性ある都市部か観光地?
 品格ある都市・町を目指すことは、どの地域のまちづくりにも共通するテーマ。

▲お隣りの市の大規模スーパーの駐車場のありさま
▲上流部から流れついたごみ。県内で唯一無料だった岐阜市の普通ごみ収集も有料化に向かっている
▲通過交通の多い道路に面した田は、冬になるとポイ捨てごみが目立つように。農家にとっても大迷惑!!

2025.6.20 アジサイの山寺に想う

 我が家から車で20分足らず、お隣の山県市の三光寺にアジサイ見物に行きました。ネットによれば1万株200種の東海随一の紫陽花スポットと言い、名前の由来となる伝え話のある山寺は、かつては女人禁制だったと言います。
 平日のこの日も、アジサイ目当てに多くの人が、訪れていました。
 山間部だけに高齢化などにより、人手が足りないのでしょうが、ブラッシュアップすればリピーターも増すことでしょう。この日もテレビ取材が入り、翌日、名古屋テレビで放映されているのをたまたま見かけました。山県市役所でも、大々的にネット配信(https://share.google/BAbcxBg9I0rzCHQqT)していますが、さらに磨きをかけたいところです。
 岐阜市や粟野にも多くの隠れた資源が、息づいています。歴史までコンパクトシティ化してはいけません。自分たちの宝に地域住民は関心を寄せる一方、市は市の魅力を戦略的・計画的に講じ、地域と協働してブラッシュアップする責任があります。
 道三親子が対峙した鷺山城と岐阜城の構図などは、壮大なランドスケープとなりそうです。私たちの地域の眉山山頂の鎧塚古墳もしかり。琴塚古墳より古く、古墳時代からの悠久の歴史を秘めています。
 アジサイに触れ、改めて考える機会をもらいました。地域の宝について地域の共感を得るには、まずは一緒に学び合う仲間づくりから。

▲アジサイの時期に合わせて、本殿ではご本尊の御開帳が行われていました
▲このところの真夏日にお疲れ気味のアジサイも、水際では色彩豊かに
▲手水鉢に浮かべた花の演出には好感が持てる・・・蛇口が水道栓!
▲はがきの樹とも呼ばれる多羅葉は、山県市の天然記念物に指定されている。粟野の済法寺境内のより太い
▲満開を迎えた菩提樹も山県市の天然記念物
▲ツルアジサイのイワガラミが樹木を伝う
▲イワガラミの花と萼片
▲コイが泳ぐ弁天池

2025.6.18 台風シーズン

 公民館講座「災害への備え」を受講してきました。多くの参加者が(女性が多い)、備蓄品や簡易トイレの実習など1時間半ほどの講座を、楽しみながら、熱心に学びました。
 特に印象深かったのは、過去の災害を語り継ぐことも重要との講師の指摘です。昭和34年、この地方に甚大な被害を与えた伊勢湾台風の記憶は、参加者の中にも体験者が多く、我も我もと語り合いました。
 その日のことは、長良川の堤防沿いに住まいのあった小学生の私の脳裏にも深く刻まれています。名古屋に努めていた父が、昼下がりに帰宅し、南の窓にトタン板を張り終えると、また勤務先に戻っていきました。「今度の台風は大きい。なのに新聞やテレビも東京に関係がないことは大きく報道しない」。何につけても、地方のことは後回しの時代だったのでしょうか。父は、仕事の関係上、台風の進路には注意を払っていたおかげで、最低限の備えをすることができました。深夜、母と兄の3人は、神様にお祈りする長い時間を過ごしました。うなりをあげて一呼吸置きながら吹きつける風、ミシミシと音を立て今にも壊れそうな木造2階建て。台風の目に入り、しばし穏やかになりましたが、再度うなりを上げ始めました。ロウソクの灯りを囲み、家屋の一番北のトイレの前の平屋部分でおびえ、風が収まったのはまだ夜が明けぬ時分。ひと眠りしたものの寝不足のまま、長良川の様子を見に行くと、思ったほど水かさはありません。もちろん濁流が大木を押し流してくる様子はすさまじい迫力。水が引いたのは4日ほどたってから(当時は今よりも流下速度が遅かったのです)のこと。びっくりしたのは、砂山に覆われていた河原が、石だらけの景観に変容していたことです。駆けまわり、落とし穴をつくった遊び場は、影も形もなくなっていました。
 町内では、尊い命が失われました。4軒隣の平屋家屋が倒壊し、男性が亡くなったことが伝えられてきました。
 電気の復旧がいつだったか、記憶はありませんが、給水車が訪れた翌日は、真っ赤に燃えるような夕焼け。水にはあまり困った様子はなかったので、近所のお宅から手汲みポンプの地下水をもらったかもしれません。
 市内の至る所で浸水被害がありましたが、幸いにも私の住む地域では大規模な浸水がなかったおかげで、生活は比較的普段に戻るのは早かったようです。
 その数年後、第二室戸台風が、昼前にやってきました。風は、負けず劣らずの強さで、怖さもひとしおでしたが、夜間の台風ほど怖いものはありません。
 当時に比べて、海水温は上昇しています。異常気象による超巨大台風の襲来が、あってもおかしくありません。
 大切な情報源は、当時と同じようにラジオでしょうか。今では、欠かせないスマホの充電もできるソーラーラジオをホームセンターの特価で安く買いました。気を付けないといけないのは、ネット通販では1万円前後の品も見受けられることです。また、同時に購入したソーラーランタンは、すぐに壊れてしまいました。安価で優れた災害用品の開発・提供が必要です。
 食料のローリングストックや停電、断水に供えた備蓄品の購入や定期的なチェックが求められています。

これ以前の日記は、バックナンバーをご覧ください。「直近の日記」は、再編集の作業中です。

粟野・徒然日記” に対して13件のコメントがあります。

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