2020年11月29日 ちょっとつぶやいてみるけど・・・これでいいのかな?

2026.3.5 啓蟄

 虫が這い出て来る季節です。例年だと、暦の上では、と添えられがちなのに、すっかり春めいてきました。陽気に誘われ、近くの畜産センター公園に出かけました。
 見事なロゼットを形成しているタンポポが咲いていました。河津桜は白梅を背景にして、咲き始めていました。近くに設置された案内板の上に、毛虫が二匹這い出ていました。
 山際に吹く風は、さすがにまだ冷たいけれど、粟野の里にも春はそこまで来ています。 

▲外来種の西洋タンポポと在来種の見分け方は花びらの下にある緑色のガクのような部分。反り返っていれば西洋タンポポというけれど、咲き始めの時期は特に分かりにくい。加えて、近年は雑種もあるとか。西洋タンポポは受粉しなくても種ができ、繁殖力が強いという。
▲カタクリのつぼみはまだ固い
▲ユキワリイチゲは、名前の通り一足早く開花しています
▲銘板の上に毛虫が2匹、這い出していました(見つけた時は2匹寄り添っていましたが、撮影時にはあっという間に別々の場所に這って行ってしまいました)
▲河津桜は、さすがに早咲きですが、まだ満開というほどでもないようです

2026.3.3 お雛様の記憶

 私が子ども時代を過ごした京町地区の近くの人形屋さんがあります。衣服の色合い、醸し出される物語・・・それまでにない斬新なエネルギーを人形に注ぎ込んだ人形師は、その跡継ぎとなるはずでした。全国的にも著名な節句人形工芸士の後藤由香子さんが、49歳の若さで突然に亡くなられたのは、2017 年 9 月。そんなこととはつゆ知らず、久しぶりにお会いできるかと訪ねたときの驚きや、忘れられません。
 古くからの伝統に新たな風を吹き込むことへの逆風は、想像に難くありません。
 一方、半世紀前まで主流の段飾りは、飾り付けや収納スペースの関係もあり、今では親王飾りが人気になりました。でも手軽に楽しみたいという庶民の思いは、昔も同じ。明治から大正にかけてのものと思われますが、手に乗るほどのお雛様があります。同じように、手のひらサイズの市松人形さんも。
 いつの世も、多様なニーズに応えながら、伝統のままに守り続けられる確証がない限りは、常に時代に即した革新を試みることで、絶えず引き継がれていくものなのでしょう。
 その点、庶民の食文化は、あまりにも変化が激しいようで、子どもの頃、段飾りの前で兄弟並び、お雛様の小さなお膳に盛られた食べたのはタニシとワケギのヌタあえと花切大根の味噌汁。妙においしく感じたものです。今日、タニシはもとよりスーパーで見かけることもなく、花切大根も中国産ばかり。
 話は変わって、岐阜市京町の美江寺観音のこと・・・3月1日にお蚕祭りの名で知られ、各地から農業関係者が見物に押し寄せた千数百年の歴史のある美江寺祭りは、平成20年に幕を閉じました。全国でも西の横綱と言われ、当日売られた土鈴はとっくの昔に後継者がないまま、途絶えてしまいました。伝統を引き継ぐことは、何と難しいことでしょう。粟野西の南宮神社も、数年前から地域でのおもりができなくなったとか。
 祭りの日は、雪がちらつくなど寒いとしたもの、と母が話していました。
 幼少期を過ごしたご近所の祭りの思い出は遠くへ、桃の節句の記憶も遠くへ。余寒厳しく。

▲明治から大正にかけてと思われる市松人形も、母の愛蔵の一体
▲美江寺の土鈴 かつては軒を並べた何件もの露店で販売され、客はそれを値切って買うのが慣例とされていたという。私が買い始めたころには、そういう風習はなくなっていた。いろいろな形があり、私は主に干支が描かれた鈴を求めていたが、途絶えてしまい、十二支を集めることはできずじまい。

2026.2.28 商店の記憶 その1

 昨年閉店した岐阜高島屋が、テナントの高島屋の負担で取り壊されることが所有者との間で合意したとの今朝の新聞記事。一方、名古屋では、今日、名鉄百貨店と近鉄百貨店の閉店しました。時代の変化に追いつかなければ容赦ない世界とはいうものの、岐阜市と違うのは、一大商圏を抱える名古屋だからこそ、ステップアップする次の一手が打てようというもの。うらやましくもあるけれど、岐阜市ならではの魅力づくりは、何も中心部にとどまらないはず。過去に合併した周辺の村の歴史文化を、もう一度見つめてみましょう。
 話は変わって、私の生まれた実家は、当時、繊維生地を商い、小売りにも応じていました。昭和20年代末には2人の使用人がいました。まさきっつぁ、れいきっつぁと呼ばれていましたが、マサキチ、レイキチさんでしょう。祖父も文吉でしたから、明治から大正にかけては「吉」が流行ったのでしょうか?。
 反物(布地)を長尺の竹の物差しで計り売りし、五つ玉のそろばんをはじいていました。冬の暖房は、火鉢一つか二つですから、客も芯から冷えたことでしょう。格子戸の店先の天井から吊るされた電灯も店の広さに追いつかず、薄暗い。「〇〇」商店と名字の店名を墨書した1〜2mの木製看板だけを掲げるものの、何を商っているか分からないから、おそらくは店を訪れるのは、近所の馴染み客だったのでしょう。その後、店を閉めることになり、人手に渡った町家は、格子戸を取り払われシャッターになります。
 これが先例となったわけではありませんが、空襲による火災を逃れた地域でも、土蔵や町家は取り壊され、街並みの風情は次々と失われ、地方都市ならではの生き残りの強みである歴史文化は、押しやられていきました。郊外の田畑も同じ。そして、中心市街地以上に古代の歴史が息づく周辺の村々も同じ。
 まちの個性を生かすも殺すも、当事者の思いにかかっています。

▲狸の置物
「他を抜く(商売繁盛)」の語呂合わせで、開店時には配られた。徳利には屋号が描かれている。

2026.2.3 節分の日の記憶

 スーパーの新聞折り込みチラシは、恵方巻だらけ。そんなに需要があるのか不思議ですが、普段配られてこない地域のスーパーも一緒に入っています。
 ここからは、昔のお話。いつのころからでしょうか、豆まきの声がきこえてきません。子どもの頃は、決まって、近所のあちこちから、「鬼は外、福は内」の声が聞こえてきたもの。「鬼は外」と、開け放った窓から外へと豆をまきました。近所に負けない大声でないと、鬼がコチラにやってくるというので、余計に大声合戦になったのでしょう。
 所変われば・・・三輪地区では、イワシの頭を串にさし、玄関に飾る風習がありました。偶然にも目にしたときは、感動を覚えたものです。中濃地方でも、イワシと短冊に鬼の顔を書いて鬼が入って来ないようにと玄関や窓などに飾ったそうですが、今も伝えられているのでしょうか。
 今年の運勢を占うため、歳の数だけ豆をつかむ、というのはごく普通の習わしかと思いますが、運良くつかめたら、一番近くの四叉路まで行って、紙に包んで掴んだ豆を置いて厄落としするというのも中濃辺りの風習で、朝になるといくつも置かれた包みが見られたそうです。子どもたちにとっては、鬼がうろついているので怖くて仕方なかったようです。私も2年連続で歳の数だけ掴んでしまい、物は試しと、置きに行ったことがあります。粟野台団地の出口が開通したので、今は比較的自宅の近くに四つ角ができたのですが、開発前の当時は、黒木橋西の四叉路まで出向かなくてはなりませんでした。めっきり冷え込んだ夜中、運も何もあったものではない・・・。
 豆の数も若いからこそピッタリという、昔々のお話でした。

2026.2.2 雪と町家の記憶

 昔の記憶をたどる第1回目・・・降る雪を眺めつつ。
 私が生まれて最初の記憶は雪なのです。曾祖母の背中におんぶされた視線の先には、明け放たれた“大戸口”(入り口)がありました。“町家”の暗闇を四角く切り取った空間に、ボタン雪がと降りしきっていました。家の外も夕暮れのように暗いはずなのに、そこだけ鮮烈な眩しさを生み出し、幼い私に一瞬の記憶を残したのです。
 ねんねこにくるまれ、オンブしてくれた曾祖母は、“土間”から“上り框(かまち)」の30cmほど高い“店の間”に立つ使用人(小僧さん)と何やら会話していました。言葉が理解できないのでしょう、内容は聞き取れません。私は5月生まれなので、1歳でしょうか。
 2度目の記憶は、裏庭に面した新屋の東側の縁。暖かな日差しを受けておちゃんこ(お座り)しているとき。祖母が、「動いたらあかんよ」と用足しに立った光景。今度は言葉が理解できていますね。
 “走り庭”と呼ばれる入り口から裏庭まで続く細長い土間、道路に面した“店の間”から“中の間”そして“奥の間”へと畳の部屋が続きます。“中の間”と“奥の間”の土間は、“火袋”と呼ばれる吹き抜けで、太い梁がむき出しの吹き抜けになっており、見上げる天井に明り取り(長辺70cmほどでしょうか)が設けられていました。
 “中の間”には、帳場机も置かれていましたが、もっぱら居間として、使用人も一緒に食卓を囲みました。“奥の間”は、主人の寝床。床の間には、布袋様が天を指す置物が置かれ、“中の間”への欄間あたりに、横長長尺の額に入れられた水墨画(餓鬼を鍾馗様が追いかける図)が掛かり、応接室は、ちょいとした生け花の洋画が飾られ、クラシックな応接椅子2客とテーブルが配され、庭の眺めを楽しむことができました。筧から落ちる水の音、鉢に陽が射しきらきらと光り、金魚が群れて泳いでいました。池の水は、応接間の縁の下まで満ちていました。隠し階段で2階に上がると、庭の風景がまた違って見え、高木の緑豊かに風に揺れています。道側の2カ所の窓から覗こうとすると、天井高は子どもでも頭を打つほど低い。格子がはめられていましたが、結婚式の際は、格子を外し、菓子撒きしたものです。
 3歳で京町地区に引っ越すまで過ごした母の実家の町家は、米屋町にありました。戦時下、建物疎開で間引かれます。結果的にこの地区は空襲での延焼を免れています。この界隈は江戸時代から明治初めまで、岐阜町の中心でしたが、既ににぎわいは、柳ヶ瀬、駅前へと移り始めていたはずです。そのおかげで、再建された町家も街並みも、しばし昔の風情を残していました。
 降る雪や「昭和」は遠くなりにけり。中村草田男の「明治」の句は、昔を懐かしむノスタルジーを詠んだものと、今まで思ってきました。しかし、大きな社会の変革をもたらした時代への、何やらもどかしい思いが込められていたのではないかと思うのです。
 同様に、敗戦そして高度経済成長期を経た昭和の時代そのものが、遠ざけたもの、そして平成から令和へと、さらに拍車がかかり失われ、失われつつあるものが、自分の記憶の影に見えるのです。そんな記憶を、現在地と対比しながら生活史として記録するとともに、失われゆくものを見つめるきっかけにもなればとの思いで、折に触れ、記憶をたどっていきたいと思います。
  大量消費、使い捨て時代、家すら消耗品と化したような感覚に襲われたのは、町家への郷愁と思い入れが大きかったせいでしょうか。

2026.2.1 雪景色

 今年も早や、ひと月が経ちました。雪の日が続き、日陰は根雪状態。今日も吹雪いています。粟野の雪景色を眉山を中心に写真で紹介しますね。
 そして、今年は昭和101年。年末にも書きましたが、戦後70年の暮らし庶民目線で、折に触れ、次回、綴ってみたいと思います。

▲1月12日 12時42分撮影
▲1月12日 13時32分撮影
▲1月25日 8時17分撮影
▲1月30 日8時3分撮影
▲最初1羽きりだったのが (1月23日 7時56分撮影)
▲次々とやって来て(同7時56分撮影)
▲整列しました(同7時56分) 尾が長いので雀ではなさそう・・・普段見かけない鳥のようです
▲咲き始めていたオオイヌノフグリも閉じてしまいました(1月22日撮影)
 

これ以前の日記は、バックナンバーをご覧ください。「直近の日記」は、再編集の作業中です。

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